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田村 陸 新ブログ 月と1時のレントゲン クリックで移行します。
新入生が入って来た。
今年は寮の部屋が縦割りだから、新入生と僕の2人部屋。
今はとりあえずはうまくやれている。
にしても今年の一年生はレベルが高い。
単に上手いとか下手とかじゃなくて、一人一人の個性が確立してるというか、一つの事を極めた人が沢山いる。
それは誰が見ても驚くもの。
そういう特技をもってる人はやっぱり特別だ。
それがやりたくてやりたくてしょうがない人達だ。
それに理由なんて無いし、尽きる事も無い。
卒業生のK先輩もそうだし、林俊作君にしたってそうだし、ピカソだってそうだし、新入生達もそうだ。
それに比べて僕は本当に何をやっても中途半端。
考えだけが一人歩きして、手が全く進まない。
そもそもこういう根本的な部分から間違ってるんだと思う。
一番重要な、純粋に好きという気持ちがいっつも欠けている。
これなら小学生の時の方がよっぽど良かったな。
そういう凄い人を前にすると、いきなり客観的になって、自分が馬鹿みたいに感じる。
これからどうして行けば良いんだろうか。
今年は寮の部屋が縦割りだから、新入生と僕の2人部屋。
今はとりあえずはうまくやれている。
にしても今年の一年生はレベルが高い。
単に上手いとか下手とかじゃなくて、一人一人の個性が確立してるというか、一つの事を極めた人が沢山いる。
それは誰が見ても驚くもの。
そういう特技をもってる人はやっぱり特別だ。
それがやりたくてやりたくてしょうがない人達だ。
それに理由なんて無いし、尽きる事も無い。
卒業生のK先輩もそうだし、林俊作君にしたってそうだし、ピカソだってそうだし、新入生達もそうだ。
それに比べて僕は本当に何をやっても中途半端。
考えだけが一人歩きして、手が全く進まない。
そもそもこういう根本的な部分から間違ってるんだと思う。
一番重要な、純粋に好きという気持ちがいっつも欠けている。
これなら小学生の時の方がよっぽど良かったな。
そういう凄い人を前にすると、いきなり客観的になって、自分が馬鹿みたいに感じる。
これからどうして行けば良いんだろうか。
# by moonorkissanddie | 2010-04-08 23:30
大竹伸朗さんに、再び会うことが出来た。
昨日大竹さんのレクチャーがあって、それに行った。
やっぱりこの世には絶対に欠かせない出会いというのがあって、その中の一人に絶対あの人は存在する筈だ。
何が凄いのかってやっぱり僕がどんな状況にあろうとあの人に会えばすぐに元の状態に戻れるって事。
僕は何かしら影響を受けやすい体質で何かあったらすぐに洗脳されてしまったりする。
映画を見るたびにそうなったりもする。いわゆる中二病というやつか。
そういう性格上常に自分の中の信念みたいなものが180度コロコロ変わってそれの繰り返しだ。
そんな時あの人に会えばそういう波がぱっと消えて、どっしりと地面が見える。
それがどれほど寛大で僕の心を癒してくれることか。
地面の中でうごめく無限の力が僕を奮い立たせ、今は病的なほど制作意欲にとりつかれている。
レクチャーの後、大竹さんに話し掛けてもらえた。
覚えていてもらえた事に興奮して本当に少しだけ話してスタスタその場を立ち去った後、妙に後悔して一緒に写真を撮りたいという事を口実に車からもう一度会場に戻ってふらふらしていると、財団の人やら大学生くらいの人やらが何人かで大竹さんとの「飲み会」みたいな奴の打ち合わせをしてて、諦めて帰ろうかと思って突っ立ってたら僕のことも誘って頂いて、結局ついて行って一緒に食事した。
大竹さんと財団の人と若い大学生くらいの人と僕と全員合わせても11人くらいだったかな。
大竹さんとも周りの人とも沢山話せてとても面白かった。
ああいうのって初めてだったけど、そういうの経験できて良かった。
それから「新潮」の大竹さんが連載してるコーナーの中に、去年の僕の事を書いて頂けたそうだ。
タイトルは「初心と鉄塔」。
こういう事をして頂けるは本当にありがたいし、心の底から嬉しい事だ。
これからもこういう人脈を大切にしていきたい。
それから会話の中に林俊作君の事も出てきた。
彼は大阪から片道500キロ近くある大竹さんが住む宇和島まで自転車で行き会いに行った事があって、大竹さんと知り合いだ。
僕は彼の画集を最初に見たときから衝撃を受け続けている。
会いに行くと良いと言われた。
だから会いに行こうと思う。
その前に何か箱に詰めて送ってみようか。
こんな感じでとにかく昨日は忙しかった。
じつはマイケル・ケンナの写真展も見たんだけど、とりあえず今はいいや。
別の記事で書くことにする。
ちなみに大竹さんは坂本龍一と仲がいい。
坂本龍一がどんな人か聞いてみた。
「普通の人柄の良いおじさんだよ」
坂本龍一が一瞬身近に感じた。
おもしろかった。
昨日大竹さんのレクチャーがあって、それに行った。
やっぱりこの世には絶対に欠かせない出会いというのがあって、その中の一人に絶対あの人は存在する筈だ。
何が凄いのかってやっぱり僕がどんな状況にあろうとあの人に会えばすぐに元の状態に戻れるって事。
僕は何かしら影響を受けやすい体質で何かあったらすぐに洗脳されてしまったりする。
映画を見るたびにそうなったりもする。いわゆる中二病というやつか。
そういう性格上常に自分の中の信念みたいなものが180度コロコロ変わってそれの繰り返しだ。
そんな時あの人に会えばそういう波がぱっと消えて、どっしりと地面が見える。
それがどれほど寛大で僕の心を癒してくれることか。
地面の中でうごめく無限の力が僕を奮い立たせ、今は病的なほど制作意欲にとりつかれている。
レクチャーの後、大竹さんに話し掛けてもらえた。
覚えていてもらえた事に興奮して本当に少しだけ話してスタスタその場を立ち去った後、妙に後悔して一緒に写真を撮りたいという事を口実に車からもう一度会場に戻ってふらふらしていると、財団の人やら大学生くらいの人やらが何人かで大竹さんとの「飲み会」みたいな奴の打ち合わせをしてて、諦めて帰ろうかと思って突っ立ってたら僕のことも誘って頂いて、結局ついて行って一緒に食事した。
大竹さんと財団の人と若い大学生くらいの人と僕と全員合わせても11人くらいだったかな。
大竹さんとも周りの人とも沢山話せてとても面白かった。
ああいうのって初めてだったけど、そういうの経験できて良かった。
それから「新潮」の大竹さんが連載してるコーナーの中に、去年の僕の事を書いて頂けたそうだ。
タイトルは「初心と鉄塔」。
こういう事をして頂けるは本当にありがたいし、心の底から嬉しい事だ。
これからもこういう人脈を大切にしていきたい。
それから会話の中に林俊作君の事も出てきた。
彼は大阪から片道500キロ近くある大竹さんが住む宇和島まで自転車で行き会いに行った事があって、大竹さんと知り合いだ。
僕は彼の画集を最初に見たときから衝撃を受け続けている。
会いに行くと良いと言われた。
だから会いに行こうと思う。
その前に何か箱に詰めて送ってみようか。
こんな感じでとにかく昨日は忙しかった。
じつはマイケル・ケンナの写真展も見たんだけど、とりあえず今はいいや。
別の記事で書くことにする。
ちなみに大竹さんは坂本龍一と仲がいい。
坂本龍一がどんな人か聞いてみた。
「普通の人柄の良いおじさんだよ」
坂本龍一が一瞬身近に感じた。
おもしろかった。
しばらく見ないうちにコメント欄がカオスに・・・・w
でもなんかこういう事してる人も憎めないな~。
結局人間はどこに居たって同じ人間なんです
ところでさっき家に帰ってきました。
沖縄のA君はようやく羽田に着いた頃だと思います。
那覇に着くのは11時くらい、大変です。
それとさっき帰って来るついでに東川でやってた森山大道の写真展見ました。
いつも熱心にいろいろ見て回ってるなあと思われるかもしれませんが、実は大抵は親に連れられて行ってる時が多いんです。
だから正直入る前はそんなに期待してなかったりする。
でも今日のは本当に凄かったんですよ。
まず最初にカラー写真がたくさんあって、それが絵画みたいだった。
色のインパクトがでかい。
少し行くと後は全部モノクロ写真。
ここからが本番って感じ。
はりついた濃厚な白と黒の濃淡が写真の中に重力みたいなのを産んでいて、画面のいたるところに眼が吸い寄せられて、視界がはりつく感じ。
凄く生々しい反面、現実がそこに凝縮してじっと止まってこちらを睨み付けて来るようにも見える凄い写真でした。
あれは誰にも真似できない。ありがちなイマイチピンとこないただの時代背景の記録写真とは全く違う、超芸術的なものを感じた。
見てて全く飽きが来ない凄い展覧でした。
そんな感じで今は家です。
では、また。
でもなんかこういう事してる人も憎めないな~。
結局人間はどこに居たって同じ人間なんです
ところでさっき家に帰ってきました。
沖縄のA君はようやく羽田に着いた頃だと思います。
那覇に着くのは11時くらい、大変です。
それとさっき帰って来るついでに東川でやってた森山大道の写真展見ました。
いつも熱心にいろいろ見て回ってるなあと思われるかもしれませんが、実は大抵は親に連れられて行ってる時が多いんです。
だから正直入る前はそんなに期待してなかったりする。
でも今日のは本当に凄かったんですよ。
まず最初にカラー写真がたくさんあって、それが絵画みたいだった。
色のインパクトがでかい。
少し行くと後は全部モノクロ写真。
ここからが本番って感じ。
はりついた濃厚な白と黒の濃淡が写真の中に重力みたいなのを産んでいて、画面のいたるところに眼が吸い寄せられて、視界がはりつく感じ。
凄く生々しい反面、現実がそこに凝縮してじっと止まってこちらを睨み付けて来るようにも見える凄い写真でした。
あれは誰にも真似できない。ありがちなイマイチピンとこないただの時代背景の記録写真とは全く違う、超芸術的なものを感じた。
見てて全く飽きが来ない凄い展覧でした。
そんな感じで今は家です。
では、また。
空はこんなに晴れていて、淡い光が溶け始めの雪を照らしていて、視覚的にもこんなに気持ちいいってのに、もうすぐまたあの薄暗い狭い部屋で監禁生活。
良く言えば集中制作期間が始まる。
でも現状はたいした事ではない。
全く時間が足りない。
今週中には画期的な生活リズムを考えないと。
良く言えば集中制作期間が始まる。
でも現状はたいした事ではない。
全く時間が足りない。
今週中には画期的な生活リズムを考えないと。
# by moonorkissanddie | 2010-03-07 15:27
僕が前に比べて無機質だの夜の街だの鳥居だの言わなくなったと思いの方も多いだろう。
しかし決してこれはそれに対する関心を失ったとかそういう事ではない。
むしろそこに没頭し、安住出来ればそれはそれで最高だが、僕は最終的に芸術家を目指すので、そういうわけにもいかない。なぜならその工程は既に栄光の14才から15才にかけて存分に体験したからである。
それでもやはり全ての根源は矛盾し対立し合う二つの世界に直結する自分の深層心理にあるし、最も自然的で調和的(静寂)な中にのみ存在する世界と、全てを実体的、物質的に捉らえたいわゆる無機質な、その中で機械的かつさらにぎこちなく既存理性の崩壊にも似た起伏を繰り返すまさに現代的な世界には未だに無限の謎が残されている。
例えるならば今は感覚の旅行だ。
どこに向かうか、どこに戻るか、もしかしたら新しい大陸を見つけるかも知れないし、永遠に家無しかも知れないし、いつ死ぬかも、生まれるのかもわからない。
そういう事だ。
しかし決してこれはそれに対する関心を失ったとかそういう事ではない。
むしろそこに没頭し、安住出来ればそれはそれで最高だが、僕は最終的に芸術家を目指すので、そういうわけにもいかない。なぜならその工程は既に栄光の14才から15才にかけて存分に体験したからである。
それでもやはり全ての根源は矛盾し対立し合う二つの世界に直結する自分の深層心理にあるし、最も自然的で調和的(静寂)な中にのみ存在する世界と、全てを実体的、物質的に捉らえたいわゆる無機質な、その中で機械的かつさらにぎこちなく既存理性の崩壊にも似た起伏を繰り返すまさに現代的な世界には未だに無限の謎が残されている。
例えるならば今は感覚の旅行だ。
どこに向かうか、どこに戻るか、もしかしたら新しい大陸を見つけるかも知れないし、永遠に家無しかも知れないし、いつ死ぬかも、生まれるのかもわからない。
そういう事だ。
# by moonorkissanddie | 2010-02-28 01:13
今日は美術部の三年生を送る会がありました。
やっぱりこの部活仲が良いな〜と思った。
それとしばらくぶりに三年生に会うと凄い人達だったと改めて実感して、尊敬した。
デッサンが超人的に上手い先輩からは何枚か本物を貰った。これを目標にしていきたいと思う。
先輩達の後ろ姿は本当に立派で、思い出すたびに自分の行動を反省する。
ここで培った人間関係が消えてしまうのはとても悲しいから、これからも先輩達の後輩であり続けようと思った。
やっぱりこの部活仲が良いな〜と思った。
それとしばらくぶりに三年生に会うと凄い人達だったと改めて実感して、尊敬した。
デッサンが超人的に上手い先輩からは何枚か本物を貰った。これを目標にしていきたいと思う。
先輩達の後ろ姿は本当に立派で、思い出すたびに自分の行動を反省する。
ここで培った人間関係が消えてしまうのはとても悲しいから、これからも先輩達の後輩であり続けようと思った。
# by moonorkissanddie | 2010-02-28 01:08
雪国の画家は色彩に劣ると言う話しをしたが、どうやら間違いらしい。
僕はふと手元にあった風景画家の画集を開いた。
この超越した白の色彩!
まさに彼は好んで雪景色を描いている。
そして一つの事実に気付いた。色彩という面に関してだが、ピカソとダリを知ろうとした時、開くべき画集はまさにどちらか一つで事足りる。
なぜならこの二人の天才は、その卓越し過ぎた同一の瞳で同じ景色を見たために、酷似した色彩感覚を持っているからだ。
そして先人にならって偏狭的に言わせてもらうと、彼等は完璧な白を知らない。
それに引き替え天上で産み落とされた卵にも及ぶ超越した黄色、そして紺碧の感覚を持っている。
画家の目とその足を乗せる土地はまさに直結していて、その長所と短所はすぐに見て取れるものだ。
僕はふと手元にあった風景画家の画集を開いた。
この超越した白の色彩!
まさに彼は好んで雪景色を描いている。
そして一つの事実に気付いた。色彩という面に関してだが、ピカソとダリを知ろうとした時、開くべき画集はまさにどちらか一つで事足りる。
なぜならこの二人の天才は、その卓越し過ぎた同一の瞳で同じ景色を見たために、酷似した色彩感覚を持っているからだ。
そして先人にならって偏狭的に言わせてもらうと、彼等は完璧な白を知らない。
それに引き替え天上で産み落とされた卵にも及ぶ超越した黄色、そして紺碧の感覚を持っている。
画家の目とその足を乗せる土地はまさに直結していて、その長所と短所はすぐに見て取れるものだ。
# by moonorkissanddie | 2010-02-28 00:20
偉大なるラファエロはこう述べているのである。
「絵を描いている時はいつだって別の事を考えている」と。
この感動的な事実はまさに彼がいかに偉大なシュルレアリストであったかをこの上なく明確に物語っている。
まさにシュルレアリスムが視覚芸術に最も適した形態であり、いわば視覚そのものにそれの根源が存在している事さえ証明してくれるのだ。
この世に存在する音や景色、例えるならば駅で聞く無数の人の声、そして建物の窓の細かい構造などをいちいち拾い上げて全てを把握する人間はほぼいないだろう。
しかしこれらが存在し感じ取る事ができる状況におかれた時、既にそこには意識(理解)という心理のさらに下層の「感覚」のみが働く、つまりシュルレアリスムの原型が生まれるのである。
要するにシュルレアリスムとはより高度な精神分析を必要とする、いわば抽象芸術に近い仕事だと言える。
そしてそれらが作品へ変容する時、音楽の場合はこの理解と感覚が一つの束を成し、この濃密な液は全く無駄の無い道を選択して耳から心理に直結して流れ込む。
だから音楽は強烈な一撃を醸し出す。
偉大な音楽を聞いて拍子抜けした人間を見た事はない。
解り易い例を言うと坂本龍一のピアノ曲である。
この順応性の強さにはひどくうちひしがれた。
そこで重要になるのが芸術の存在目的がただ単に癒しや感動のみにある訳では無いという事だ。
もしそんな事実が存在すれば絵画芸術などとっくに音楽に殺され、死んでいるはずだ。
おおげさに言うと、絵画と音楽とでは真逆の方向性を持っているのだと思う。
なぜなら絵画は視覚から得る情報なので、理解と感覚は想像を絶する勢いで枝分かれする。
というのも目というものは耳に比べて何倍もの数の多種多様な情報を一度に迎える事ができるからである。
そしてその無限と言って良い程の枝の中から至福の一本を取り上げるのは
あくまで観賞者自信であって、ここで絵画は見る者独自の虹彩をくぐり抜け心理に投影される。
おそらくこの様な多観性により古くから画家の間で「絵画こそ至上の芸術である」という偏狭的思想が生まれたのだろう。
サルヴァドール・ダリはこの多観性を見事に操り、傑作「ナルシスの変貌」を完成させたのだ。
そして誰もが驚くそのダブルイメージの存在はまさにシュルレアリスムの本質である意識下の心理の具現化でもあり、無数に広がる矛盾の枝を一時的に集結させる唯一無二の事実でもある。それが集結する瞬間、凝縮し再び広がるまでの期間はビックバン以前、初期宇宙のはじまり、すなわちインフレーションに匹敵するほどの速度で通過する。 この様に多種多様な要素を完璧に調和させる事のできる絵画こそが真の芸術であり、シュルレアリスムが視覚芸術に最も適した形態である理由である。
「絵を描いている時はいつだって別の事を考えている」と。
この感動的な事実はまさに彼がいかに偉大なシュルレアリストであったかをこの上なく明確に物語っている。
まさにシュルレアリスムが視覚芸術に最も適した形態であり、いわば視覚そのものにそれの根源が存在している事さえ証明してくれるのだ。
この世に存在する音や景色、例えるならば駅で聞く無数の人の声、そして建物の窓の細かい構造などをいちいち拾い上げて全てを把握する人間はほぼいないだろう。
しかしこれらが存在し感じ取る事ができる状況におかれた時、既にそこには意識(理解)という心理のさらに下層の「感覚」のみが働く、つまりシュルレアリスムの原型が生まれるのである。
要するにシュルレアリスムとはより高度な精神分析を必要とする、いわば抽象芸術に近い仕事だと言える。
そしてそれらが作品へ変容する時、音楽の場合はこの理解と感覚が一つの束を成し、この濃密な液は全く無駄の無い道を選択して耳から心理に直結して流れ込む。
だから音楽は強烈な一撃を醸し出す。
偉大な音楽を聞いて拍子抜けした人間を見た事はない。
解り易い例を言うと坂本龍一のピアノ曲である。
この順応性の強さにはひどくうちひしがれた。
そこで重要になるのが芸術の存在目的がただ単に癒しや感動のみにある訳では無いという事だ。
もしそんな事実が存在すれば絵画芸術などとっくに音楽に殺され、死んでいるはずだ。
おおげさに言うと、絵画と音楽とでは真逆の方向性を持っているのだと思う。
なぜなら絵画は視覚から得る情報なので、理解と感覚は想像を絶する勢いで枝分かれする。
というのも目というものは耳に比べて何倍もの数の多種多様な情報を一度に迎える事ができるからである。
そしてその無限と言って良い程の枝の中から至福の一本を取り上げるのは
あくまで観賞者自信であって、ここで絵画は見る者独自の虹彩をくぐり抜け心理に投影される。
おそらくこの様な多観性により古くから画家の間で「絵画こそ至上の芸術である」という偏狭的思想が生まれたのだろう。
サルヴァドール・ダリはこの多観性を見事に操り、傑作「ナルシスの変貌」を完成させたのだ。
そして誰もが驚くそのダブルイメージの存在はまさにシュルレアリスムの本質である意識下の心理の具現化でもあり、無数に広がる矛盾の枝を一時的に集結させる唯一無二の事実でもある。それが集結する瞬間、凝縮し再び広がるまでの期間はビックバン以前、初期宇宙のはじまり、すなわちインフレーションに匹敵するほどの速度で通過する。 この様に多種多様な要素を完璧に調和させる事のできる絵画こそが真の芸術であり、シュルレアリスムが視覚芸術に最も適した形態である理由である。
# by moonorkissanddie | 2010-02-27 09:47
久しぶりの更新となります。
先日、道展U21がありました。
あの絵をシュルレアリスムと呼ぶ人が沢山いるんですけど、それはとても大きな間違いです。
シュルレアリスムがあんなものであるはずかない。全くの別物です。
どうか間違えないで下さい。
それと映画美術監督の種田陽平のアーティストトークを聞きました。
この人は「KILL BILL」とか「ザ・マジックアワー」とか「THE 有頂天ホテル」とか「ヴィヨンの妻
桃桜とタンポポ」とか他にも色々な映画のセットなんかをデザインしてる人です。
やっぱり空間認識とか色彩に対する理解が深くて、自分の色彩感覚とか空間把握力がいかに無いかを痛感しました。
あと神田山陽が来校しました。
なんか野蛮な人で、人間くさかった。
朗らかなイメージが崩壊しました。
まあ最近こんな感じです。
あと自分の描く作業に対する適当さが今になって本当に嫌になりました。
埃を完全に除去する事を目的とした絵を乾燥させるための箱を作りました。
先日、道展U21がありました。
あの絵をシュルレアリスムと呼ぶ人が沢山いるんですけど、それはとても大きな間違いです。
シュルレアリスムがあんなものであるはずかない。全くの別物です。
どうか間違えないで下さい。
それと映画美術監督の種田陽平のアーティストトークを聞きました。
この人は「KILL BILL」とか「ザ・マジックアワー」とか「THE 有頂天ホテル」とか「ヴィヨンの妻
桃桜とタンポポ」とか他にも色々な映画のセットなんかをデザインしてる人です。
やっぱり空間認識とか色彩に対する理解が深くて、自分の色彩感覚とか空間把握力がいかに無いかを痛感しました。
あと神田山陽が来校しました。
なんか野蛮な人で、人間くさかった。
朗らかなイメージが崩壊しました。
まあ最近こんな感じです。
あと自分の描く作業に対する適当さが今になって本当に嫌になりました。
埃を完全に除去する事を目的とした絵を乾燥させるための箱を作りました。
# by moonorkissanddie | 2010-02-27 09:09
言葉の寿命はどこまでか、またどこからか。
もとから曖昧にしか成り得ない弱者を突付き回して何が出てくるのだろうか?
もとから曖昧にしか成り得ない弱者を突付き回して何が出てくるのだろうか?
・大衆的
・異端者
・豊かな信仰心
・無宗教
・科学的思想
・哲学
・超現実主義
・妄想力
・直感力
・観察力
・異端者
・豊かな信仰心
・無宗教
・科学的思想
・哲学
・超現実主義
・妄想力
・直感力
・観察力
# by moonorkissanddie | 2010-01-31 00:34
ファンタジーとはすなわち現実逃避に外ならない。
現実で起こるあらゆる事物に感応する事が出来ない心理が劣化した仮想現実に身を委ねるとはまさに悪魔の行為そのものである。
僕がかのサルヴァドール・ダリを深く信仰するという事はつまり既に僕の目指す先は物質的な領域を超え極めて絵画的な超現実主義となった事を意味する。
したがって下らない映像的絵画を抹殺する意外にこれを実現する方法は無いのだ。
そこで今深く悩まれるのは感性の統一である。
最近眼前に突如現れる絵画はまさにシュルレアリスムそのものである。
となると、確かな空間認識力と技術、素描力、彩色力、そしてなにより重要になるのが食事と睡眠である。
ダリは鍵の付いた睡眠を提案している。
これは僅か1秒ほどで睡眠をとる画期的な方法だ。
超現実を極めると物質は可食的になるのだと僕は思う。
ダリは制作前に最高級のウニとソラマメを食べ、その日の晩に白鳥とも言うべき夢を見たと言うのに、僕はこの硬いイヤフォンから聞こえて来る音楽からしか白鳥を得られないなんてあまりに酷いではないか!
ダリは非常に優れた生活リズムを理解していた。
それなのに僕には実現のしようが無い!
全く悲しい事だ。
そこで僕は一日2回の瞑想、そして暗幕を使った完全なる暗闇の中でマグカップにそそがれたミルクをその日の心理に伴い調整し時間をかけて飲み、その直後に鍵の付いた睡眠をとるという行為を心掛けたいと思う。
僕はただ、美しい夢が見たいだけだ。
現実で起こるあらゆる事物に感応する事が出来ない心理が劣化した仮想現実に身を委ねるとはまさに悪魔の行為そのものである。
僕がかのサルヴァドール・ダリを深く信仰するという事はつまり既に僕の目指す先は物質的な領域を超え極めて絵画的な超現実主義となった事を意味する。
したがって下らない映像的絵画を抹殺する意外にこれを実現する方法は無いのだ。
そこで今深く悩まれるのは感性の統一である。
最近眼前に突如現れる絵画はまさにシュルレアリスムそのものである。
となると、確かな空間認識力と技術、素描力、彩色力、そしてなにより重要になるのが食事と睡眠である。
ダリは鍵の付いた睡眠を提案している。
これは僅か1秒ほどで睡眠をとる画期的な方法だ。
超現実を極めると物質は可食的になるのだと僕は思う。
ダリは制作前に最高級のウニとソラマメを食べ、その日の晩に白鳥とも言うべき夢を見たと言うのに、僕はこの硬いイヤフォンから聞こえて来る音楽からしか白鳥を得られないなんてあまりに酷いではないか!
ダリは非常に優れた生活リズムを理解していた。
それなのに僕には実現のしようが無い!
全く悲しい事だ。
そこで僕は一日2回の瞑想、そして暗幕を使った完全なる暗闇の中でマグカップにそそがれたミルクをその日の心理に伴い調整し時間をかけて飲み、その直後に鍵の付いた睡眠をとるという行為を心掛けたいと思う。
僕はただ、美しい夢が見たいだけだ。
# by moonorkissanddie | 2010-01-18 19:16
常に自分に新しい刺激を与え続けなければいけない。
停滞してはダメだ。
そこに留まり続ける事は死を意味するのだ。
黒く淫らにも恐ろしく揺れる雲煙の中に身を置くのだ。
生きてるうちは安全なんて確保しない方がいい。
悟りは新たな門を与えてはくれるが、決して終着点を与えてはくれないのだ。
※この文章は去年の12月2日13時12のものである。
が、基本的な思想は変わらない。
停滞してはダメだ。
そこに留まり続ける事は死を意味するのだ。
黒く淫らにも恐ろしく揺れる雲煙の中に身を置くのだ。
生きてるうちは安全なんて確保しない方がいい。
悟りは新たな門を与えてはくれるが、決して終着点を与えてはくれないのだ。
※この文章は去年の12月2日13時12のものである。
が、基本的な思想は変わらない。
# by moonorkissanddie | 2010-01-18 18:41
今さっき、爆笑学問に二十世紀少年の浦沢直樹が出てた。
ちょうど今日書こうと思ってたことと同じ様な旬な内容でした!!
中学生の時、それから去年も、僕は「不変芸術」なんて事を言ってたような記憶がある。
それは大間違いだと最近つくづく思う。
芸術は世代交代を繰り返してるし。
芸術作品だなんていくら気取った事を言っても、要は人間が自分達の生活を良くする為に作った「遊び」でしかない。
人間は神じゃない。
どんな天才だって持ってる感覚はせいぜい自分が生まれたその時から今現在までの数十年間が大半。
ターゲットに出来るのは同じ時間を過ごしてきた同世代の「仲間」のみ。
未来人にも多大な影響をもたらす芸術なんてありはしない。
実際そうじゃないか。
現代人が教科書に載るモナリザを見て涙を流すか?
今あるPOPSを押し退けてオーケストラが上に来る事なんてあり得るか?
それでもオーケストラとか、伝統絵画が今でも名を残しているのは何故か。
それは人間が大切にしてきた一種の普遍的価値観が姿を変えて受け継がれてるからだ。
良く新しい物が伝統的なものを殺すなんて事を聞くけど、そんな事を言う人間は大ばか者だ。
具体例を言えば、科学も、医学もほぼ未発達の、地球が丸い事すら知らなかった時代から生まれた文化が、このそれなりに文明が開けて来た現代社会に適応するわけが無いということ。
それは現代の情報社会に突然ネアンデルタール人を連れてくるのと変わりは無い。
しかしネアンデルタール人と現代人、一見大違いのように思えて結局同じ人間だ。
中身を構成する物質も、感情にしたってそこまで大きな差があるわけでもない。
ネアンデルタール人の持つ悲しみや喜びっていう感情は、もちろん現代人にも理解できるもの。
要は外側の「容れ物」が違うだけ。
人間は徐々に文明を切り開き、そのつど「容れ物」を変えてそれに対応してきた。
芸術にしたってそれは同じ。
その時代に一番適した形に変身してこそ、それを広く社会に伝達できる。
もしも伝統的な、表面上の「形」にだけ執着して、進化を止めたらどうなるだろう。
たちまちその分野の芸術は社会から取り残されてしまう。
そうなればもう理解できる人間は消えて行く。
最後には意味不明な古代文明の遺産になってしまう。
それではいけない。
だからこそ、変身する。
ずっと続く価値観を受け継ぎ、その時代にも解るように転換することで、過去の芸術への理解も広める事が出来る。
結果的に今の芸術があるからこそ、過去も存在できる。
今を取ってしまえばそれは文化じゃなくて、ただの遺産だ。
そして、それが出来る人間こそが芸術家。
過去に存在した膨大な価値観を見極めて解りやすく翻訳する、それによってまた新しい価値観が生まれる、これを繰り返す。
それが芸術家の仕事。
この発想で行くと、絵画ってのは本当に時代に取り残されている。
音楽は素晴らしい、データに置き換えれば万人が共有することが出来る。
本当に優れた分野だ。
文学もそうだし、映画もそうだし、漫画もそう。
広く大衆に影響してる。
世界が一つに開けた情報社会では、情報としての伝染力が欠かせない要素だ。
ただ不思議な事に、これらは芸術であっても、大衆には芸術とはほぼ感知されていない。むしろ娯楽という解釈が一般的だ。
どうも人は芸術という気取った言葉を嫌う傾向があって、それに対してひどく頑なだ。
だからこれからは出来る限り使用したくは無くなった。
これはさっきテレビ見てて思ったこと。
話は戻るけど、今の時代絵画といえばいかにも公募展うけを狙った作品達が賞を取り、そのまま流れで金持ちのコレクションに収まって終わり。
目にする機会はまれに開かれる気取った展覧会か、美術手帳の薄っぺらな見開き程度。
これでアートって気取るのは本当にお間抜けだ。
確かにルネサンス時代の巨大な壁画は本当に凄い。
ただしそれは人々が今より遥かに信心深くて、視野で言うと一つの「世界」がもっともっと狭かった時代にとっての物だから。
ただ、それでも僕は静止画の可能性を忘れたくは無い。
逃げようと思えば、小説にだって、漫画にだって、アニメにだって映画にだって今からいくらでも逃げれるけど、僕は今あるこの大きな壁にあえて立ち向かおうと思う。
それに挑戦しつつ、他の事にも取り組んで行く。
絵画って文化を死なせたいとは思わないから。
そこで今思うのはCGアートの可能性。
この分野はまだまだ本当に未発達だ。
未発達であって、妙な完成しちゃってる感が腹立たしい。
今はまだあの表面主義の薄っぺらに絶望感しか覚えないけど、もしかしたらここに答えがあるような気もする。
遂に絵は表面の質感だとか物質的要素の力を借りずに、本当の意味での「絵」としての底力が試されるのだ。
人間の「視覚」にどれだけの物を与えることが出来るのか。
ただ、これで名画のポスターに負けてしまっては意味が無い。
本来物体として存在する絵画をコピーしたときにどうしても生じる「劣化」を補う何かを見出さなければならない。
僕はまず、人間の視覚心理がどこに着眼するのかを研究する事からだと思う。
もしもこれに成功すれば、やっと絵画も大衆の波に乗れるのかもしれない。
「芸術」のラベルが「娯楽」に張り変わる日も来るのかもしれない。
まあ最近、そんな事を考えてみてる訳だ。
僕は暇な、人間なのさ。
ちょうど今日書こうと思ってたことと同じ様な旬な内容でした!!
中学生の時、それから去年も、僕は「不変芸術」なんて事を言ってたような記憶がある。
それは大間違いだと最近つくづく思う。
芸術は世代交代を繰り返してるし。
芸術作品だなんていくら気取った事を言っても、要は人間が自分達の生活を良くする為に作った「遊び」でしかない。
人間は神じゃない。
どんな天才だって持ってる感覚はせいぜい自分が生まれたその時から今現在までの数十年間が大半。
ターゲットに出来るのは同じ時間を過ごしてきた同世代の「仲間」のみ。
未来人にも多大な影響をもたらす芸術なんてありはしない。
実際そうじゃないか。
現代人が教科書に載るモナリザを見て涙を流すか?
今あるPOPSを押し退けてオーケストラが上に来る事なんてあり得るか?
それでもオーケストラとか、伝統絵画が今でも名を残しているのは何故か。
それは人間が大切にしてきた一種の普遍的価値観が姿を変えて受け継がれてるからだ。
良く新しい物が伝統的なものを殺すなんて事を聞くけど、そんな事を言う人間は大ばか者だ。
具体例を言えば、科学も、医学もほぼ未発達の、地球が丸い事すら知らなかった時代から生まれた文化が、このそれなりに文明が開けて来た現代社会に適応するわけが無いということ。
それは現代の情報社会に突然ネアンデルタール人を連れてくるのと変わりは無い。
しかしネアンデルタール人と現代人、一見大違いのように思えて結局同じ人間だ。
中身を構成する物質も、感情にしたってそこまで大きな差があるわけでもない。
ネアンデルタール人の持つ悲しみや喜びっていう感情は、もちろん現代人にも理解できるもの。
要は外側の「容れ物」が違うだけ。
人間は徐々に文明を切り開き、そのつど「容れ物」を変えてそれに対応してきた。
芸術にしたってそれは同じ。
その時代に一番適した形に変身してこそ、それを広く社会に伝達できる。
もしも伝統的な、表面上の「形」にだけ執着して、進化を止めたらどうなるだろう。
たちまちその分野の芸術は社会から取り残されてしまう。
そうなればもう理解できる人間は消えて行く。
最後には意味不明な古代文明の遺産になってしまう。
それではいけない。
だからこそ、変身する。
ずっと続く価値観を受け継ぎ、その時代にも解るように転換することで、過去の芸術への理解も広める事が出来る。
結果的に今の芸術があるからこそ、過去も存在できる。
今を取ってしまえばそれは文化じゃなくて、ただの遺産だ。
そして、それが出来る人間こそが芸術家。
過去に存在した膨大な価値観を見極めて解りやすく翻訳する、それによってまた新しい価値観が生まれる、これを繰り返す。
それが芸術家の仕事。
この発想で行くと、絵画ってのは本当に時代に取り残されている。
音楽は素晴らしい、データに置き換えれば万人が共有することが出来る。
本当に優れた分野だ。
文学もそうだし、映画もそうだし、漫画もそう。
広く大衆に影響してる。
世界が一つに開けた情報社会では、情報としての伝染力が欠かせない要素だ。
ただ不思議な事に、これらは芸術であっても、大衆には芸術とはほぼ感知されていない。むしろ娯楽という解釈が一般的だ。
どうも人は芸術という気取った言葉を嫌う傾向があって、それに対してひどく頑なだ。
だからこれからは出来る限り使用したくは無くなった。
これはさっきテレビ見てて思ったこと。
話は戻るけど、今の時代絵画といえばいかにも公募展うけを狙った作品達が賞を取り、そのまま流れで金持ちのコレクションに収まって終わり。
目にする機会はまれに開かれる気取った展覧会か、美術手帳の薄っぺらな見開き程度。
これでアートって気取るのは本当にお間抜けだ。
確かにルネサンス時代の巨大な壁画は本当に凄い。
ただしそれは人々が今より遥かに信心深くて、視野で言うと一つの「世界」がもっともっと狭かった時代にとっての物だから。
ただ、それでも僕は静止画の可能性を忘れたくは無い。
逃げようと思えば、小説にだって、漫画にだって、アニメにだって映画にだって今からいくらでも逃げれるけど、僕は今あるこの大きな壁にあえて立ち向かおうと思う。
それに挑戦しつつ、他の事にも取り組んで行く。
絵画って文化を死なせたいとは思わないから。
そこで今思うのはCGアートの可能性。
この分野はまだまだ本当に未発達だ。
未発達であって、妙な完成しちゃってる感が腹立たしい。
今はまだあの表面主義の薄っぺらに絶望感しか覚えないけど、もしかしたらここに答えがあるような気もする。
遂に絵は表面の質感だとか物質的要素の力を借りずに、本当の意味での「絵」としての底力が試されるのだ。
人間の「視覚」にどれだけの物を与えることが出来るのか。
ただ、これで名画のポスターに負けてしまっては意味が無い。
本来物体として存在する絵画をコピーしたときにどうしても生じる「劣化」を補う何かを見出さなければならない。
僕はまず、人間の視覚心理がどこに着眼するのかを研究する事からだと思う。
もしもこれに成功すれば、やっと絵画も大衆の波に乗れるのかもしれない。
「芸術」のラベルが「娯楽」に張り変わる日も来るのかもしれない。
まあ最近、そんな事を考えてみてる訳だ。
僕は暇な、人間なのさ。
少し出遅れたようだけど、みんな明けましておめでとう。
僕はようやくこの新年の流れに乗ったよ。
2010.
やわらかいミルクのようなイメージを持つこの言葉。
マヤとノストラダムスが残した「節目」の時まで後2年。
個人的にはあまり気にならないな。
僕は元々ただ自然の流れに乗ってたい人間だから。
去年はとても悲しい年だった。
ある時はひどく絶望したり、あまりに歯がゆい思いをしたり、全体的に自分が嫌いな年だった。
それと、本当に現代社会に希望の道筋を与えた天才音楽家マイケルジャクソンが死んだ。
天使の心を持つ少年はあの小さな体にあまりに多くの才能を持ち過ぎた。
だから凄く神々しくて、切ない存在だったのだろう。
話は戻るけど、とにかく去年は自分にとって失敗の年だ。
今思えば全てが失敗だった。
だけど良く聞く失敗は成功の元とある通り今年はその成功の年にしてみせる。
その予兆のように例外として年の終わりは素晴らしかった。
東京に行った事は、予想以上に大きく思える。
やっと僕は理性的な自分と感性的な自分を見出した。
年越しは絵を描いていた。
あくまで冷静に。
年が明けた。
札幌の三越で千住博の絵を見た。
実際に見ると滝の絵よりも風景画のほうがはるかに良かった。
この人はどれだけ紳士に自然と向き合って来たのだろうかと驚いた。
まあせっかく年も明けたことだし、これからは絵の話は控えよう。(ほんとに書きたい事は書くけどね)
正直つまらないだろうし、僕もさすがに自分に対する他者からの「超インドア派マニアック絵画オタク少年」のイメージに腹が立ち、これを今年中に何としてでも掻き消す為にガラリと自分の方向性を変えるつもりだ。
普段からテキトー人間なこの僕は、今更何をするにも驚かれないし、それは今までの努力の賜物である。
そもそも本来の僕は全くもってインドアじゃない。
僕はむしろ昔はゲームが嫌いでずっと外で遊んでいた様な人間だ。
絵を描くからインドアだなんて馬鹿げてる。
何なら今度からは外で絵を描いても構わない。
そもそもひっきーに良い物が作れるわけが無いだろう。
外部からの刺激が毎日目にする薄汚い小部屋だけなんて。
それは何にしたって同じ。
それと東京に行ってわかった事。
僕は生活力が無いんじゃない、やる気が無いだけさ~。
事実一人になれば一回も遅刻はしなかったぜよ。
はっはっは。
まあ僕の今年の課題は研究と成果。
あらゆる事に研究心を燃やして、しっかり成果を得られる年にしたい。
それとそろそろ将来本格的に取り組むつもりの電子絵画、いわゆる「CGアート」にも手をつけ始める時期かな。
なにせ情報社会ですからな。
まあこの話はまた今度別記事で詳しく書くとするか。
なんというか制作にとらわれず、FREEDOMにもっと自分という人間から変える年にしたいと思う。
カレンダーを数えてみたら、あぁ~今年もまた365日しか無い。
さっさと行動に起こさなくては。
ではでは、今年もどうぞよろしくお願い致します。
僕はようやくこの新年の流れに乗ったよ。
2010.
やわらかいミルクのようなイメージを持つこの言葉。
マヤとノストラダムスが残した「節目」の時まで後2年。
個人的にはあまり気にならないな。
僕は元々ただ自然の流れに乗ってたい人間だから。
去年はとても悲しい年だった。
ある時はひどく絶望したり、あまりに歯がゆい思いをしたり、全体的に自分が嫌いな年だった。
それと、本当に現代社会に希望の道筋を与えた天才音楽家マイケルジャクソンが死んだ。
天使の心を持つ少年はあの小さな体にあまりに多くの才能を持ち過ぎた。
だから凄く神々しくて、切ない存在だったのだろう。
話は戻るけど、とにかく去年は自分にとって失敗の年だ。
今思えば全てが失敗だった。
だけど良く聞く失敗は成功の元とある通り今年はその成功の年にしてみせる。
その予兆のように例外として年の終わりは素晴らしかった。
東京に行った事は、予想以上に大きく思える。
やっと僕は理性的な自分と感性的な自分を見出した。
年越しは絵を描いていた。
あくまで冷静に。
年が明けた。
札幌の三越で千住博の絵を見た。
実際に見ると滝の絵よりも風景画のほうがはるかに良かった。
この人はどれだけ紳士に自然と向き合って来たのだろうかと驚いた。
まあせっかく年も明けたことだし、これからは絵の話は控えよう。(ほんとに書きたい事は書くけどね)
正直つまらないだろうし、僕もさすがに自分に対する他者からの「超インドア派マニアック絵画オタク少年」のイメージに腹が立ち、これを今年中に何としてでも掻き消す為にガラリと自分の方向性を変えるつもりだ。
普段からテキトー人間なこの僕は、今更何をするにも驚かれないし、それは今までの努力の賜物である。
そもそも本来の僕は全くもってインドアじゃない。
僕はむしろ昔はゲームが嫌いでずっと外で遊んでいた様な人間だ。
絵を描くからインドアだなんて馬鹿げてる。
何なら今度からは外で絵を描いても構わない。
そもそもひっきーに良い物が作れるわけが無いだろう。
外部からの刺激が毎日目にする薄汚い小部屋だけなんて。
それは何にしたって同じ。
それと東京に行ってわかった事。
僕は生活力が無いんじゃない、やる気が無いだけさ~。
事実一人になれば一回も遅刻はしなかったぜよ。
はっはっは。
まあ僕の今年の課題は研究と成果。
あらゆる事に研究心を燃やして、しっかり成果を得られる年にしたい。
それとそろそろ将来本格的に取り組むつもりの電子絵画、いわゆる「CGアート」にも手をつけ始める時期かな。
なにせ情報社会ですからな。
まあこの話はまた今度別記事で詳しく書くとするか。
なんというか制作にとらわれず、FREEDOMにもっと自分という人間から変える年にしたいと思う。
カレンダーを数えてみたら、あぁ~今年もまた365日しか無い。
さっさと行動に起こさなくては。
ではでは、今年もどうぞよろしくお願い致します。
3日前から東京に来ている。
一日目は同級生と秋葉に行って、次の日からどはたに行ってる。
ここに来て、初めて本当の技術向上を目の当たりにした。
別に何か革命的な指導法を使ってる訳ではない。
ただ、そこに沢山のモチーフがあって、日本の中心だけに一流の指導者が集まり、中心だけに多くの情報に恵まれる。
芸大合格の再現作品とかの現物も近くで見れる。
そうして勝手に生徒全体の目が肥えて行く。
見本があるから上手くなる。
そういう人の中で描いてると勝手に描き方が頭に入る。
見方が頭に入る。
コツがわかる。
全体の基準が上がる。
全国トップレベルへ。
この循環を強く感じた。
と同時に、絵の技術はただ上手いか下手かしかないのも知った。
専門的なテクニックなんて浅はかなもの。
上手い人はどう描いたって上手い。
だから、今回みたいな短期間でも効果は絶大。
自分の目の基準を上げて、あとはそこに追い付くように練習する。
それだけ。
受験とは関係なく普段の創作に関しても芸大レベルのアドバイスが貰えるからとても良い環境だと思う。
東京は大分慣れて来た。
地図があればある程度は何処でも行ける。
最初は北海道とは掛け離れた密集住居の群れに嫌悪感を抱いてたけど、今ではこの中にも良さを少しは感じる事が出来る。
あと素晴らしい本を手に入れた。
「ダリ 私の50の秘伝」
サルヴァドール・ダリ 著
ダリが生前書いた本の中でも最高傑作らしい。
挿絵もほぼ本人によるもの。
これはその日本語訳。
まだ天才と呼ばれる前の、まだ研究段階に居たダリの生々しい人間像が浮かび上がる。
絵の具の性質、色彩、その他様々な事が書かれていて、ダリが絵画の何処に重点を置いていたか良くわかる。
青年ダリはああ見えて実は誰よりも真面目な努力家だったようだ。
そして思想に関しても書かれている。
とても挑発的だが、ボクがいつも考えている事が大量に書かれていて、共感し、とても嬉しかった。
ダリに会ってみたかった。
明後日は北海道。
最後まで頑張りたいと思います。
一日目は同級生と秋葉に行って、次の日からどはたに行ってる。
ここに来て、初めて本当の技術向上を目の当たりにした。
別に何か革命的な指導法を使ってる訳ではない。
ただ、そこに沢山のモチーフがあって、日本の中心だけに一流の指導者が集まり、中心だけに多くの情報に恵まれる。
芸大合格の再現作品とかの現物も近くで見れる。
そうして勝手に生徒全体の目が肥えて行く。
見本があるから上手くなる。
そういう人の中で描いてると勝手に描き方が頭に入る。
見方が頭に入る。
コツがわかる。
全体の基準が上がる。
全国トップレベルへ。
この循環を強く感じた。
と同時に、絵の技術はただ上手いか下手かしかないのも知った。
専門的なテクニックなんて浅はかなもの。
上手い人はどう描いたって上手い。
だから、今回みたいな短期間でも効果は絶大。
自分の目の基準を上げて、あとはそこに追い付くように練習する。
それだけ。
受験とは関係なく普段の創作に関しても芸大レベルのアドバイスが貰えるからとても良い環境だと思う。
東京は大分慣れて来た。
地図があればある程度は何処でも行ける。
最初は北海道とは掛け離れた密集住居の群れに嫌悪感を抱いてたけど、今ではこの中にも良さを少しは感じる事が出来る。
あと素晴らしい本を手に入れた。
「ダリ 私の50の秘伝」
サルヴァドール・ダリ 著
ダリが生前書いた本の中でも最高傑作らしい。
挿絵もほぼ本人によるもの。
これはその日本語訳。
まだ天才と呼ばれる前の、まだ研究段階に居たダリの生々しい人間像が浮かび上がる。
絵の具の性質、色彩、その他様々な事が書かれていて、ダリが絵画の何処に重点を置いていたか良くわかる。
青年ダリはああ見えて実は誰よりも真面目な努力家だったようだ。
そして思想に関しても書かれている。
とても挑発的だが、ボクがいつも考えている事が大量に書かれていて、共感し、とても嬉しかった。
ダリに会ってみたかった。
明後日は北海道。
最後まで頑張りたいと思います。
# by moonorkissanddie | 2009-12-26 00:55
昨日、外山啓介のピアノを聴きに行った。
外山啓介は、今日本で最も注目されている若手のピアニストの一人らしい。
ボクも最近はよくクラシック音楽に耳を傾けている。
何故だかはわからないが、そういう気分だ。
そしてその合間に時々聴く坂本龍一。
ギャップと、また共通点が面白い。
特に好きなのはドビュッシーとラヴェルと、ショパン。
これらは特に思考を持たないというか、むしろ思考に釘が打たれて停止させられてしまうような、そんな感じがする。
これがすごく気持ち良くて、感覚だけが脳や視覚、最も聴覚を支配して、美しい霧の中を舞う鳥のように、盲目でありながら確信的に美しく、華麗に天上へ昇天するが如く深い深い地の底へ沈む魂のような、そんなどうにも言葉では表現しがたいものが、そこにはあるといえる。
そういう、最近のボクの耳にとってこれはとても旬な食べものだった。
最初にピアニストがホールに入ってきた時、客席から聞こえる無礼な靴底のゴムが擦れる音、ピアニストが座るにもかかわらず開く扉に、ボクは愕然とし、また同じくピアニストも一度鍵盤の上に浮かせた手を、降ろした。
絶望的である。
そしてたまたま、苛立ちのノイズが口を閉じたとき、その演奏は流れ始めた。
何度も耳にした、「主よ人の望みの喜びよ」。
美しい旋律だと感じたし、音もきれいに発音していたけれど、どうにも集中できない、なにより表面的な演奏に聞こえていた。
それが‘聴く耳’をいっきにそぎ落としたのかは知らないが、ボクは完全にそれらを聞き流していた。
その事態をあまりに哀れに感じて、そのまましばしの休憩となった。
ひと段落ついて、再び演奏が始まる。
それは先ほどより遥かに跳躍した、息を吹き返したかのように美しく内面的な音だった。
ラフマニノフ
これが、ピアニストに素晴らしく調和していた。
体は自然に重力を忘れ、目蓋はめり込むように下に落ち、そして視覚と聴覚が同一となり、そこに巨大なインフレーションが生まれる。
ボクは我を忘れ音楽、絵画、それに映像とも言えるその世界に没頭し、終盤に差しかかる。
自然と周りは静まり返り、そこに留まる人間そのものが、その集中を実感していた。
ピアニストの両手が美しく跳びあがる。
ピアニスト自身、おそらく一番実感したに違いない。
ボクはその衝撃が息をしているうちに、その日の夜更けまでそれを描き続け、大きな歓喜と共に眠りに落ちた。
外山啓介は、今日本で最も注目されている若手のピアニストの一人らしい。
ボクも最近はよくクラシック音楽に耳を傾けている。
何故だかはわからないが、そういう気分だ。
そしてその合間に時々聴く坂本龍一。
ギャップと、また共通点が面白い。
特に好きなのはドビュッシーとラヴェルと、ショパン。
これらは特に思考を持たないというか、むしろ思考に釘が打たれて停止させられてしまうような、そんな感じがする。
これがすごく気持ち良くて、感覚だけが脳や視覚、最も聴覚を支配して、美しい霧の中を舞う鳥のように、盲目でありながら確信的に美しく、華麗に天上へ昇天するが如く深い深い地の底へ沈む魂のような、そんなどうにも言葉では表現しがたいものが、そこにはあるといえる。
そういう、最近のボクの耳にとってこれはとても旬な食べものだった。
最初にピアニストがホールに入ってきた時、客席から聞こえる無礼な靴底のゴムが擦れる音、ピアニストが座るにもかかわらず開く扉に、ボクは愕然とし、また同じくピアニストも一度鍵盤の上に浮かせた手を、降ろした。
絶望的である。
そしてたまたま、苛立ちのノイズが口を閉じたとき、その演奏は流れ始めた。
何度も耳にした、「主よ人の望みの喜びよ」。
美しい旋律だと感じたし、音もきれいに発音していたけれど、どうにも集中できない、なにより表面的な演奏に聞こえていた。
それが‘聴く耳’をいっきにそぎ落としたのかは知らないが、ボクは完全にそれらを聞き流していた。
その事態をあまりに哀れに感じて、そのまましばしの休憩となった。
ひと段落ついて、再び演奏が始まる。
それは先ほどより遥かに跳躍した、息を吹き返したかのように美しく内面的な音だった。
ラフマニノフ
これが、ピアニストに素晴らしく調和していた。
体は自然に重力を忘れ、目蓋はめり込むように下に落ち、そして視覚と聴覚が同一となり、そこに巨大なインフレーションが生まれる。
ボクは我を忘れ音楽、絵画、それに映像とも言えるその世界に没頭し、終盤に差しかかる。
自然と周りは静まり返り、そこに留まる人間そのものが、その集中を実感していた。
ピアニストの両手が美しく跳びあがる。
ピアニスト自身、おそらく一番実感したに違いない。
ボクはその衝撃が息をしているうちに、その日の夜更けまでそれを描き続け、大きな歓喜と共に眠りに落ちた。
昨日、初めて意識が飛んだ。
少しの間は、無理矢理意識を繋ぐよう努力したが、次の瞬間夢を見た。
しばらくの夢のあと、一つの夢がまた別の夢に切り替わるように、完全に虚ろな状態に目覚め、真っ黒にぼやけた人影が向き的にこちらを見ていた。自分は少し冷たい生温い床に体を密着させており、一切の現実味もないまま完全に夢と信じ込み、一体化した感覚の無い体を外部から無理矢理操作するように、その場を立ち去った。
視界はぼやけ、足場を確認するのも苦労する中、あまりに現実によく似た情景を持つその“夢”に混乱し、先程から徐々に増大する吐き気に襲われながら、さらには何故か一刻も早く水を飲まなければ死ぬという本能的な危機感に襲われ、何とか水をとり部屋に辿り着いたものの、すぐに吐いた。
窓を開け息を吸い、ようやく少し現実味が理解出出て来た。
しかし直後にその世界を現実と受け入れなければならない恐怖に襲われ、現実味の無いその日一日の記憶に疑問を抱きながら、僕は横になった。
そして今がある。
一度夢として崩壊した世界の延長上に今の自分がいる。未だにふわふわした、夢のような感覚が抜けない。
そのせいか、まわりで起こる一つ一つの変化が恐ろしく、今は自然と口を塞ぎ、無表情となりカーテンを締め切り布団に潜り込んでいる。
今でも、僕の目から見た世界は虚ろだ。
少しの間は、無理矢理意識を繋ぐよう努力したが、次の瞬間夢を見た。
しばらくの夢のあと、一つの夢がまた別の夢に切り替わるように、完全に虚ろな状態に目覚め、真っ黒にぼやけた人影が向き的にこちらを見ていた。自分は少し冷たい生温い床に体を密着させており、一切の現実味もないまま完全に夢と信じ込み、一体化した感覚の無い体を外部から無理矢理操作するように、その場を立ち去った。
視界はぼやけ、足場を確認するのも苦労する中、あまりに現実によく似た情景を持つその“夢”に混乱し、先程から徐々に増大する吐き気に襲われながら、さらには何故か一刻も早く水を飲まなければ死ぬという本能的な危機感に襲われ、何とか水をとり部屋に辿り着いたものの、すぐに吐いた。
窓を開け息を吸い、ようやく少し現実味が理解出出て来た。
しかし直後にその世界を現実と受け入れなければならない恐怖に襲われ、現実味の無いその日一日の記憶に疑問を抱きながら、僕は横になった。
そして今がある。
一度夢として崩壊した世界の延長上に今の自分がいる。未だにふわふわした、夢のような感覚が抜けない。
そのせいか、まわりで起こる一つ一つの変化が恐ろしく、今は自然と口を塞ぎ、無表情となりカーテンを締め切り布団に潜り込んでいる。
今でも、僕の目から見た世界は虚ろだ。
# by moonorkissanddie | 2009-12-15 10:38
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